2011年6月3日金曜日

炊き出し1回目

龍岩祭でおなじみの愛知のパンク楽団=TURTLE ISLAND/ヨシキ、コウ君。兼子笑事社長=しげやす、豊田、豊橋から5名の仲間達 音茶屋/サウンドコネクテック/ヤス、ヤリ、もっさん
TRANSMITの西田君 岡田産業/パウダーガイドのおかん 俺と娘未菜(小4)で行ってきました。


前日、蔵王松金屋さんの駐車場一角をお借りして、愛知から運んできた支援物資の仕分け~炊き出し(豚汁)の仕込みをした
俺がボランティアに参加している事を聞いた長女未菜=小4は自分も参加したいと言い出した
親父の俺も自発的に言い出した娘に嬉しくもあり、みんなの承諾が取れたら参加させよう。って事に
しかし原発から北に55kmと放射能の危険性も少なくない地区
子供が一番危険性がある事。将来未菜自身が子供を授かった時に悪影響がないか?
遊びじゃない被災地でのボランティア活動。龍岩祭でそば屋の手伝いとはまったく意味が違う事。いろんな意味で悩みました。。。

結果、帰ってから本人と話し合い、俺との約束事をちゃんと守る条件で参加させる事に決めた
① 他のメンバーの邪魔にならない事
② 親父、人に頼らず、自分の口で言って大人の人から仕事を分けてもらう事
③ 辛くても泣き言を言ったり、泣いたり、甘えたりしない事
④ あいさつをし、話すときはハッキリと言う事
以上の4つの約束事

4/6自宅5時出発~現地着8:30の予定が渋滞の為30分遅れだったけど無事に9時に到着

支援物資の班と炊き出し班に分かれての作業に入りました

 現地では波乗りが好きで笠野の海岸から歩いて3分に家を建てた山下中の先生にサポートして頂いた。「先生の自宅は生き残ったものの、使えるものは2階にあった少しの日常品、ベッド位だったらしい・・・瓦礫の中からロングボード1本とヘドロだらけのハンチング帽。その帽子を何度も洗い色褪せたその帽子にみんなで寄せ書きしてきました」
(家25年ローン建てて15年払ってやっと利子返した位で元金はこれからなんだよね~)なんて苦笑いながら話す姿。
自分の事は二の次に教育者として子供達や地域の人達の為に頑張っている。サーファーでバンドマンな男気溢れるちょいワルオヤジ先生!

隣のブースは同じ山形県小国町から集まった人達
一人元気のいい奥さんはなんと蔵王上野出身で宮城に嫁いできた奥さんもいたりしてお互い協力しながらの炊き出しでした
 

ここの中学校には400人強の被災者の方達がいました
一番多かった時は700人以上がいたそうです。少しずつ帰れる様になり今いる人達は本当に住む所を無くした人達でした


ヤス、ヨシキ、おかん達はここよりもっと放射能がヤバい地域東相馬に物資を届けに行きました
ヨシキは週末LIVEがある為、東相馬から愛知にトンボ帰り、LIVE終わったらまた戻って来るそう!!ヨシキの即興も見たかった!残念!!

無事全員に行き渡り多めに作って余った豚汁&小国クルーと合同で名取文化センターにも行って欲しいとの要請があり、早々片付け14:00に名取に向け再出発

常磐道を通って名取に向かう車中、いつも行ってた閖上の河口が見えた
常磐道の土盛りで津波が止まったようで畑や町並み至る所で瓦礫や流された車の全然違う風景に唖然・・・いつも遊ばせて貰っていた場所が余りの変わり様に涙が出た
毎年、仲間家族とキャンプしてサーフトリップしている公園も遠目だけど無くなってた
仙台空港インターで降りたから見れなかったけど、その先の名取海岸線はもっと何倍も酷いらしい
名取の避難者のおばちゃんが「高速のすぐ脇に漁船やいろんな物がぐちゃぐちゃになってるから今度来た時行って見てきてごらん。」って教えてくれた

14:30過ぎ、文化センターに到着
17:30の配膳に早速準備を始める

空き時間で又先生達セッション
今度はベースもアコギも増え、豊橋の谷ちょいも参加
 

ここでは200食を配った
避難所での火を使っての料理が出来ないため被災者の人達は野菜が取れない環境らしい
小国クルーはおにぎり、唐揚げ、玉こん(俺が作ったんだけど)野菜サラダ、肉野菜炒めと沢山の種類を炊き出ししました

被災者の人達は遠慮がちに「ありがとう。温かい食べ物がすごく嬉しい」
って、喜んでくれた

小学生のちびっ子達はしげやすと仲良くなって走り回ってた。
蹴りとか入れてくるクソガキもいたけど、酷い環境の変化にストレスが溜まり発散出来ず悪さをするようになったのかもしれない
ま、度が過ぎる事をした子供はしっかり、先生と俺に叱られました(笑)
それでも甘えてくる子供は「おじちゃんだっこして座って~」って来る子もいた


名取での炊き出しが終わったのが、夜の7時過ぎ。辺りはすっかり暗くなり、ぽかぽか天気だったのも浜風が吹きグンと気温が落ちた頃でした

最後、山下の先生、小国クルーの人達と讃え合い、又再会する事を約束して解散しました

未菜も丸一日たちっぱなしで、最後は苦笑いしながら「足が苦しい」って
でも、親父との約束を守り最後までやり抜いた娘が誇らしいと思った

余程疲れていたんだろう。。。助手席に乗り、5分と経たないうちに寝息をたててた

高速に乗る前の最後のコンビニで愛知の4人と電話の交換をし、笑顔で固い握手を交わし「また会おう!」と約束して彼らは蔵王の宿に帰って行った

一人運転中、被災した人達の境遇を思い返し、自分がその境遇でもし家族や親戚、友人を失ったら・・・と思うとやりきれない気持ちと怒りが湧いた

テレビやネット、ニュースで見る情報、映像なんかじゃ絶対伝わらない現場
人として親として人間として自分はどうあるべきか?

民放テレビ番組も通常のお笑いやバラエティー番組が流れ、この悲惨な震災が徐々に忘れさられようとしている世の中

現実と非現実

変わらない毎日とその裏側にある悲惨な毎日

俺はそのどっちも見る事、体験する事が出来たから絶対に忘れないし、今回の経験を肥やしにして生きて行けると思う
未菜もそうあって欲しい

今後も自分が出来る事を続けて行こうと思う




Ozizi

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